aoi iro no tori

だんだん離れてゆくよ アルペジオのように トリルでさようなら 別れを惜しむように ──日常のおはなし──

いつもこの時期にパソコンにかかりきりになっている

 
 タブレットとパソコンの同期に一晩くらいかかりました。
 最後に同期したのいつかなと思ったら昨年の夏でした。そのあいだに起こったことが多すぎて夏は平和だったなと思ったりしました。いや気候的には地獄だったけど。
 
 
 
*ファンの余白
 
 ブログを書くという行為に対しては人生最大かもしれないくらい休んだのですが、そのあいだは本を読んだり織りをやったりパソコンの別作業(CDのリッピングとか)をしていました。
 本は読めたり読めなかったり今も吉田修一先生の怒り(映画も観たい)と沼田まほかる先生の痺れると湊かなえ先生の母性を並行して読んでいます。救いがない系の作家さんばかり読んでいますね。痺れるに収録されている林檎曼荼羅がパンチありすぎてショックが強い。ちびりちびり読んでいます。
 織りやウォーキングなど作業中によく聴いているのはBUCK-TICKのSix/Nineに収録されているデタラメ野郎が多いです。痛み発散&痛み寄り添い系の曲な気がして。
 光は信用できない、という言葉が好きです。私は自然光はまあまあ好きだけど。ビタミンDだし(そういう歌ではない)。
 音楽と人の櫻井さんの特集も読みたかった部分はだいたい読めました。九州のゲイバーのママの方とISSAYさんが立て続けに鬼籍に入られたことで酒量が増してしまわれたのかなぁと素人の想像ですけどそう思ってしまいました。
 関ジャムも観ましたし、録画もしました。櫻井さんが舞台で倒れた、という旨の言い方があったそうですが(最初のほう観られなかった&該当箇所失念)、3曲歌ってからスタッフの方に支えられて舞台袖へ、が正しいみたいですね。
 櫻井さんが亡くなって気づくのはあまりに遅すぎる判断なんですがBUCK-TICKのことではもう後悔したくなくて、でもライブはチケットの値が上がりすぎてライブへは易易と行けそうにないのでそれ以外のことで応援しようと決めました。それも後悔の種かもしれないけど。
 父が死去したときに、世帯主が母になって母に「どうしたの?」と聞かれて「世帯主がお母さんが嫌なんじゃないの。お父さんじゃないのが嫌なの」と言って「お母さんもそうだよ」と言った、ということがありました。
 今また正しく同じようなことが自分のなかで起きていて、今井さんや星野さんがギターヴォーカルになることが嫌ではないんです。オリジナルメンバーを貫こうとしているのは私にとってはむしろとても嬉しい。
 でも今井さんや星野さんが歌唱されるようになってそういう状況に慣れていって慣れた自分が「櫻井さんがヴォーカルだったときも良かったよね」というように櫻井さんを過去形で語る自分が見えてしまうのがいや、みたいな気持ちが強いです。伝わるだろうか。
 今井さんのBUCK-TICKとしてノイズではない歌声(黒色すみれさんのアルバムで聴けます)も聴いてみて「思っていたより歌上手い(けど歌詞のチューリップはキスの味ってなんなんだ、とは思った)」となったし星野さんも歌声きれいなのはコーラスで知っていたのでそうやってBUCK-TICKは進化していくのだろうな、と思ったけど私はまだ受け入れられず、突き放せず、痛みを揺蕩っている状態です。
 関ジャムで西川さんが櫻井さんのことを神秘的と言っていて、それだけではない櫻井さんの面をご家族、メンバー、仕事仲間、ファンは知っているけど敢えてその一言で言い切ったのは櫻井さんは神秘的だったという口伝を残すためかな、というのと以前からのファンに余白を残してくれたのかなと勝手に思っています。
 
 
 落ちがなくてごめんね。