aoi iro no tori

だんだん離れてゆくよ アルペジオのように トリルでさようなら 別れを惜しむように ──日常のおはなし──

暗め文章ご注意ください

 エレジーというほどのものではないけど普段の私の抱えているネットのジレンマみたいなものです。睡眠導入剤としてお使いください。
 そしていいねという言葉がゲシュタルト崩壊しそうでごめんなさい。書きなぐりしかできなくてそれもごめんなさい。ネット化石老人会にいるようなババアの戯言です。
 そして私は自分の書いたものに責任が持てないため消してしまったらそれもすみません。


*悲喜交交

 なんだか悲しくなってしまった。
 Twitterがいやになってしまった私のTwitterとの歴史は何度かこのブログで書いたのだけどいずれにせよ散漫な文章になってしまうし、今後書いてもそうなるに決まっているので今回もさくっと書くとmixiに招待していただいた2007年がはじめましてTwitterの年である。当時は海外のアカウントも国内のアカウントもごちゃまぜになっていて海外の人から無作為にフォロー返しを求められたりもした。当時はフォローではなくaddで、恐らくブロックやミュートなどの機能もなかったように思う。
 addした人はみんな顔を知らなかったけれどもう一つのホームのようで、今目指しているであろうメタバースみたいな居心地の良い世界だった。「ただいま!」とツイートするとうざがられることもなく「おかえり!」って言ってくれる。今はそうではないね。そして私もそんなのほほんとしたツイートはもうできないと思う。
 転換期は2009年くらいだったと思う。有名人や芸事をする人たちがTwitterは良い宣伝になるからか(というか気軽に交流できるという意味も込めて)その民衆の世界に参入してきた。
 喜びもあったと思う。けれども私の周りのいわゆるツイッタラーは困惑していた。
 それまで民衆のものだったTwitterがそうではなくなりつつあることに対しての畏怖みたいなものがあったように感じていた。
 当時はおたくのたまり場的な側面があって今では当たり前の実況視聴が楽しかったりしていた。当時流行っていたのは電脳コイルの実況視聴だったと記憶している。電脳コイルは2009年以前だったと思うし、ほかの作品でも起きていたと思う。
 2009年頃にfav(いわゆるファボやいいね)とリツイートという機能が実装され(まだ引用RTは実装されておらず非公式RTという「@ツイートした人のアカウント名+RTである表記+元ツイート」の形式で引用する旨を文頭に記したツイートの連鎖だった)、それまでブラウザで更新ボタンを連打しないと最新ツイートが読み込めなかったけれど専用アプリもたくさん出始めた。
 2011年から2015年くらいの記憶が一部欠落しているので詳しくは思い出せないけどそのあいだに公式のTwitterアカウントが爆発的に増えていたような気がする(ニセも多かったが)。公式マークがついている、ついていない、ではなくてクリエイターの方が「クリエイターの〇〇です」と名乗っているアカウントだ。私の好きな作家さんや業界の人でそれこそ2006年の頃からTwitterで発言される方はいらっしゃるけれどそんなに数は多くなかった。そういうかたは元々ネットが好きでご自身のサイトを運営されているような方だった。
 ちょうど私がSNSをやめようかな、と思っていたその時期にTwitterをやろうといったクリエイターさんが続々と参入してきた。
 そこで私はとてもショックなことを知る。
 私が今まで無責任に貼り付けてきたいいね(ファボ)が人を傷つけてきたことでした。
 年齢で差別はしたくないけれども、ネット人口が増えたということはやらないできない世代がやるようになったという側面もあると思うのです。
 私にとっていいねは付箋のようなものでした。誰かに口頭で教えたいからいいねしておき、あとで見るとか。今もそういった使い方をしていたりするので反省材料でもあります。
 クリエイターさんが口を揃えて言うのです。
「いいねの数をたくさんもらうけど実売数にはつながらない」
 この言葉がショックでした。私も創作系SNSで絵や二次創作のサンプルをアップして私みたいな下手な絵でも100いいねをもらったりして、でもイベントに行くと一人、二人が買ってくれたら良いほうです。私自身がいいねと手にとってもらえる数は別のものだと思い、割り切るしかないと思っていたことを公然と愚痴った(ように見えた)。
 私レベルの下手くそですら我慢していることを公の場に書いてしまう神経にも驚いたけれど、私は自分のいいねがクリエイターの誰かを傷つけてきたことがショックで、そのときのTwitterアカウントはもう残っていないと思う。
 いまの私は鍵付きのアカウントで主に情報収集を目的とした活動をしている。出版社やゲームメーカーのTwitterでいいなと思うツイートがあったらいいねする。レシピ系アカウントも増えたのでメモ代わりと載せてくれてありがとうございますの気持ちでいいねする。
 その代わりではないけど作家さんはあまりフォローしなくなった。古くからTwitterをやっているとか、古代からネットをやっているクリエイターさんとか、よほど贔屓にさせてもらっているクリエイターさん以外はそれほど多くないと思う。
 そして作家さんのツイートにいいねをするときは日常ツイートは本当に「いいな、ほっこりした」みたいな感情のものと「なにがあっても絶対にこの本を買う」という確固たる意志がないと告知ツイートにいいねを押せなくなった。
 推測でしかないけどたぶんそういうファンは少なくないと思う。ほっこりツイートにはたくさんいいねがついているのに「○日にライブやります」とか「○月×日に本が出ます」みたいなツイートは世界レベルで売れているクリエイターさん以外のいいねは少し控えめに感じる(気がする)。
 その一方で「拾いものだけど」みたいな無転載画像には無転載ゆえの「買わなきゃ」みたいな責任がいいねする側にも付随しないため同じ画像のようであっても「〇〇という本が出ます」みたいなツイートよりいいねの桁が一桁多かったりする。
 本当はその作家さんへ行くべきいいねなのに、画像を拾った人がかすめとっていく。

 いいねと実売数が伴わないなんて草創期からネットをやっていたらみんな知っていることだ。自分のサイトのカウンターの回転数とリクエストと同人誌の売れる数が伴わないみたいなもんだ。みんな懐を痛めず楽しみたいんだ。素人作品でもプロの作品でも。
 クリエイターの人はネットでいいねと実売数が伴わないことを知る前に世間的に売れてしまっているから落差を感じるのだ。
 自分にそう言い聞かせても私のなかからその愚痴が消えることはないし、無断転載画像へのいいねが止まるわけでもない。

 懐を痛めずに本(特に漫画なら)を読む方法は今はけっこうある。有名なマンガ図書館Zで絶版になった本を無料で読むことができるし広告なし版を買うこともできる。そしてそのお金は作家さんに還元されることになっているはず。
 出版社主導の漫画アプリもたくさん出ているし公式アプリのため読むと無料で読んでも作家さんにいくらかマージンが入る場合もあると聞く。それはそれとして読ませていただいているし、微力ながら課金もさせていただいている。
 作家さんも身銭を切って作品を作ってくださっているので読み手だけが無料で、は少し違う気がする。でも私は古書も読むので必ずしも作家さんの味方とは言えない。それだけ古来から未だに本が贅沢品という見方もあるのだと思う。

 最後に嬉しかったことを書いて終わります。
 好きな作家さんが「いいねの数だけ本棚にある○ページを晒す」というハッシュタグをやっていた。普段はただの「いいね」。ドキドキした。ありったけの勇気でいいねを押した。
 私は普段は鍵付きのアカウントに引きこもっているためその人にいいねが見えるのかどうかも分からなかったけれど、私のいいねもカウントされ「私のいいねの数字が意味を持った」ということに甚く感動し、そのツイートもいいねさせていただいてしまった。
 いいねってそういう距離感があってもいいんじゃないかなあと思った日でもありました。

おしまい。