aoi iro no tori

だんだん離れてゆくよ アルペジオのように トリルでさようなら 別れを惜しむように ──日常のおはなし──

子供の頃の怖いもの

ありすぎて思い出せていないものもあると思う。一人でいることは怖くて絶対に無理だった。人と一緒にいることも怖くて、一人でいる以上に怖かったため破壊的な衝動にすら陥った。あの頃の私は真実人間ではなかったのかもしれない。

*宇宙人だったころ

昨日は久しぶりに子供の頃の鋭敏な感覚を思い出す夕方だった。トリイ・ヘイデン著の「タイガーと呼ばれた子」を読んでいて、いつの間にか日が暮れ、夕闇が差し迫る時間帯に寝室のほうへ伸びる青白い光があった。それは子供の頃の私が怖くて怖くて仕方のない白い壁に反射する夜を表す青い光だった。 うとうととお昼寝をしてしまって一人で目覚める夕方、白い壁に浮き上がるその青い光が怖くてたまらなくて、極め付きというのが階段の突き当りに飾ってあった一枚の小さな絵で、額縁はよく憶えていないけれど白い花瓶が描かれた青い背景の絵で、私はその絵を見ると体のスイッチを切られたように動けなくなっていた。子供の頃の私は怖いものが多くて、一つ例に挙げるとしたら夜に一人になるのが恐ろしすぎて一人でトイレにも行けない子供で、夜に(場合によっては昼も)二階に一人で行くこともできなかった。きっかけは色々あったけれど中学生の頃は全く逆で、夜遅くまで自分の部屋で本を読んだり絵をかいたりしている子供だった。中学生の頃の私は全時代の私のなかでも群を抜いて無敵だった。それでも人の痛みを推し量るとか、そういうことは苦手だったけれど。 一人でトイレに行けないとか、二階に行けないとか、一人でお風呂に入ることができないという、小さいようで大きな悩みというのは小学校の3年生か4年生まで続いた。魔夜峰央先生の「親バカ日誌」風に書くとしたら、意味の分からないらくがきを何度も何度も書き続けて、ある日そのらくがきが「ふゆ」という意味をもつ文字になったように、日々の積み重ねで一人でトイレに行けるようになり、二階に行けるようになり、お風呂に一人で入ることができるようになっていった。雨垂れ石を穿つのように本当に微々たる体験の積み重ねだったと思っているし、その積み重ねが私の人生を作っていると感じている。 ただ、時々、本当にごく稀に子供の頃のとても鋭敏だった頃の記憶が呼び覚まされて、唐突に自分の状況が恐ろしくなるときがある。精神的にもそうだけど、視覚や嗅覚から入る情報も大きい。 自分の感覚の全てが今に戻ってから思い出すと「なんだあんなこと」と思うのだけども、その状態に陥っている時は体を動かすのも難しいほどの恐怖に襲われる。そう思うと、子供の頃の私というのは、本当に心の半分以上が恐怖に支配されていたのだなと痛感する。年々、歳を重ねて少しずつ痛さや怖さを忘れていって、昨日の話ではないけど人間になっていっているように思う。 私は本当に宇宙人だったのではないかと錯覚してしまう。いや比喩だけども。