aoi iro no tori

だんだん離れてゆくよ アルペジオのように トリルでさようなら 別れを惜しむように ──日常のおはなし──

感情があばれている

単に怒っているという意味ではなくて、歓喜的な咆哮であったり、涙が暴発しそうな感じであったり、様々です。

*こしらえる

昨日の記事で思わず使ってしまったフレーズですが、良い響きですよね。こしらえる、とかあつらえる、とか。Eテレの365日の献立日記を見るのが習慣化していて、こしらえる、は特に沢村貞子さんの随筆に良く登場するフレーズですよね。 古き良き日本語を、これからも今以上に愛おしみたいと思います(時々誤用もしています……)。

*インターネット新生児の母とインターネット老人の娘

いろいろなものがペーパーレス化していて、母が慣れないなりにペーパーレス化になんとか順応してやろうとしている姿をみて「いじらしい」と思ってしまう。 だってね、黒物家電をずっと毛嫌いしていて「絶対に触らない。なんか怖い」と言っていて、タブレットも最初は全然だったのに今ではAmazon Fire Stick TVもなんとか使えているし、父が亡くなる前はまだタブレットの録画ボタンの押し方もよく分かっていなかった母が今や録画も写真もスクショも撮るようになって、それに付け加えてペーパーレス化に慣れようと日夜がんばっているなんて……と、なんとか黒物家電を母に使わせようと色々と画策した身としては感慨無量なものがあります。 一方で私のほうはというと、最近のMail Appはpopメールは取っておくことが原則としてはできない、という記述を見かけて、なんとかメールを取っておきたいので古いメインマシンのお尻を叩いてそちらでpopメールのメールを取っておいてしまうローテクおばさんなのでした。違うメールアプリを使えばいいのかな。

*大人になったね

音に敏感になったわんこが嫌がらない音楽なのとシンプルに聴きたいのとが合致して最近ZABADAKを聴くことが多くて、その上で母とよく話すのは「上野洋子さんはZABADAKという枠のなかに居続けるにはもっと自分のやりたいことが多くて、窮屈だったのでは」ということと、吉良知彦さんにも「自分はこれである」という目標というか、ブレないリーダーシップのようなものがあったのだなーと思う、というか年を経て感じますね。 上野洋子さんに対して感じたこととして、上野洋子さんのソロ活動での曲を聴いたときと、のれんわけ前の上野洋子さんは最初イコールにならなかったように記憶しているので(私はソロになられてからの音楽を聴いたのが先でした)、歌いかたというかのれんわけ前と後で感情の載せ方が変わったのかな? と今は思います。実際のところは知らんけど! としか言い様がないです。 吉良知彦さんも好きで尊敬しておりますし(ご逝去されたことは存じ上げておりますが、あえて現在進行形で)、上野洋子さんも音楽にとても崇高な思いがあるのだなーと、ごく最近になって強く感じるようになりました。 改めて私の感情の機微は成長していないようで成長しているな、と思いました。言い方を変えると老いていっているともいうけれども、あまり深く掘り下げなくてもまあいいじゃない。 余談:言葉が出てこない 洗濯バサミというワードが出てこなくてピンチとか歯磨き粉とかそんなニュアンスの言葉しか頭に浮かばず、何分かして「洗濯バサミ!」と記憶の糸がつながりました。 実際のイギリス英語ネイティブのかたは洗濯バサミをPegと呼ぶそうです。そちらのほうが覚えやすそうだぞ!? 日本語への愛が揺らいでいるぞ。 言葉以外も危ういので母のやっている脳ドリルを、ちょっと借りさせてもらおう。

※ 一部不適切な言葉を使用しておりましたので訂正いたしました。