aoi iro no tori

だんだん離れてゆくよ アルペジオのように トリルでさようなら 別れを惜しむように ──日常のおはなし──

性癖ってゆがめられて成長するよね、という話

朝から夜までこの記事にかかりきりでした。普段からこのくらいじっくり書きたいです。けど書くのも読んでいただくのも何週間かに一度が限度というか何週間かに一度でも難しいです。 先にお断りしておくのですが、性癖をゆがめられたことを恨んでいるという記事ではなく、あるはずのなかった、私には見えなかった道を切り開いてくださってありがとうございますという記事です。

*壊れ物のような思い出の一部(若干の雑さは許してください)

面白い話かどうかは分かりませんが、性癖をゆがめられて好きになった音楽の話をしましょう。ちょっと長くなるかもしれません。 私は子どもの頃、ライトである=まっすぐで正しい、怖くない音楽が好きでした。正しいというのは当時の感覚であって本来の意味ではないです。改めて今の感覚で書くと、クラシック音楽の長調で終始明るくて終わり方もハッピーエンド、みたいな分かりやすい音楽です。短調の曲を聴くと悲しくなって泣いてしまうような弱メンタルな幼年期でした。なので自分が好きではない(恐怖にすら感じていた)短調の曲を弾かなくてはならないピアノのおけいこの場というのは自分で習いたいと言ったのにも関わらずとても苦痛でした。元々やる気のある子をピアニストに育て上げるみたいなハイソサエティーな場でもありましたし、4歳で始めて合わなくて9歳になる年にやめました。感想があるとしたらただ一言、両親には本当に申し訳なかったです。 音楽的な原体験だとドラえもんのアニメ「ドンジャラ村のホイ」という回で出てきた民族音楽みたいな歌が好きでした。それを毎日飽きずにビデオを再生して聴いて、ほかにクリィミーマミの歌のカセットテープとか藤子不二雄テレビまんが(昔はアニメとは言っていなかった気がする)のカセットテープとかを延々と聴くような、でもそれが好きだと知られるのが恥ずかしい、みたいな面倒くさい子どもでした。 少し経つとピアノに目覚めてドレミの歌とか弾きたくなるんです。母がピアノを弾いていたためアップライトピアノが家にあったりしたことも手伝って。 そこで母が「じゃあ本場のドレミの歌を聴いてみたら?」なんてそそのかしてサウンド・オブ・ミュージックのビデオを見せてくれるので、今度はそっちに嵌って毎日これも飽きずに見て、耳コピでドレミの歌を覚えたりするんですが幼稚園に行って鍵盤ハーモニカで弾くと「サチちゃんのは違うよ、うそっこだよ」って言われるんです。 文科省推奨のペギー葉山さんが訳されたヴァージョンは日本向けにアレンジされていましたから……。一人涙で褥を濡らしたりしていました。 一方で姉が子どもながらに微妙に変わったオタク少女でして(今風に言えば重度の中二病みたいな感じです)、姉妹二人の部屋でアニメのウンチクを語りながら音楽を聴かせてくれるんです。それがサイレント・メビウスとか風の大陸といったアニメのサウンドトラックで(当時映画が同時上映されていました)。風の大陸の序文に出てくる「全土は麻のように乱れた。」という一節が姉のお気に入りだったらしく、言葉の意味も分からず覚えた記憶があります。 で、その姉と寝起きを共にしていたので朝起きる時に流れる音楽がサイレント・メビウスだったり風の大陸のサントラだったりするのです。先の展開を知っている方は「もうここでニアミスしているじゃないか」と思われるかもしれませんが、まだこの時は出会っていません。 車に乗ると運転席に座る父の好きなザ・ピーナッツとかピンク・レディー、ちあきなおみさん、その辺りの歌謡曲とかフォークソングなどが流れていました。それらもまたわりと私のなかでの正しい音楽に近く、当時も好きでしたし今も強く心に根付いています。 性癖をゆがめられたと思う第一の音楽はFINAL FANTASY Vです。生まれて初めてに限りなく近い時期に出会ったゲームのソフトでした。いろいろ遊び方を教えてくれたいとこに「絶対に嵌る」と言われてまんまと嵌ってしまったビッグブリッヂの死闘、怖いのに好きになってしまった古代図書館の音楽、封印の書、古き土の眠りなど、当時影響を受けた曲は数知れないですが、その時は素通りしていた(もしくは変な曲だと思っていた)ように思うけど実際物凄く影響を受けていたのは「決戦」「最後の闘い」でした。あそこで初めて触れたであろうプログレ的音楽。うねりのサウンドへの焦がれはFFVIの「魔導研究所」「魔大陸」「死闘」「妖星乱舞」などでおしっこちびるくらいの衝撃をもって芽吹き、少女時代の前半を終えます。表現が下品ですみません。それくらい衝撃的だったのです。でも表現としてはあまり適切ではなくてすみません。 10歳の頃に初めて触れたのがマクロスシリーズの音楽です。私の世代だとマクロス7とマクロスPLUSでした。マクロス7で福山芳樹さんの音楽に触れることができたことも大きかったですし、マクロスPLUSで菅野よう子さんと、とうとう新居昭乃さんに出会ってしまいました。当時、姉がシャロン・アップルのCDを持っていてよく聴かせてくれましたから。まだ昭乃さんの名前には出会っていなくて、11歳か12歳の頃にMacross Plus For Fan's OnlyのCDを購入して名前をなんとなくぼんやりと知りました。 D.N.A2を観て以来憧れ続けていたL'Arc-en-CielのCDを、11歳の頃に経済力の差で姉が先に買ってしまいます。私としては初めて触れた男性シンガーのグループで、だからこそ先を越された悔しさと言ったらなく、その日から二十代のしばらくまではラルクは我が家では姉だけのものでした(一緒に聴くのだけが可能なシステムでした)。二十代前半の頃にその辺の和睦があってシェアし始めました。 閑話休題。この頃(11歳頃)、ラルク以外に影響を受けたアーティストはけっこう多くて、何故かというとラルクのラジオ番組を姉がカセットテープに録音して聴かせてくれて、そこで出会ったDepeche ModeであったりDead End、Rattなどは未だに色濃く脳裏に刻まれていますし、13歳になると私自身導かれるように新居昭乃さんのラジオ番組に出会うのです。初めて聴いた曲は「Licao do Vento」でどこかで聴いたことのある音楽(当該曲は風の大陸のサントラvol.1の一曲目「失われた大地」ヴォーカルヴァージョンでした)で、どこかで耳にした記憶のある「アライアキノさん」という名前。 初めてラジオで聞いた曲が風の大陸の「Licao do Vento」ではなければスルーしていたかもしれません。それでものちには出会って好きになっていたかもしれませんが、その日に気になる・好きになる全ての要素が過去に巧妙に仕組まれていたような出会いでした。 昭乃さんのラジオを聴くようになってU2を好きになったり、Radioheadやブルガリアン・ヴォイスなどに興味を持ったりしました。ラルクや昭乃さんの音楽そのものの影響もとても大きかったのですがラジオ番組で流れる音楽はそれ以上のようにも感じました。 昭乃さんのラジオのゲストとして来ていた吉良知彦さんにも影響を受けて、プログレというか変拍子やうねる音楽へものめり込んで行きます。後述の通り嵌るのはだいぶ後だったのですが。同時期に全く違うラジオ番組で偶然、ZABADAKが(知りうる限り吉良知彦さんと上野洋子さんは)強い影響を受けたというケイト・ブッシュの音楽にも出会っていて、そうとは知らずに自分でCDを集め始めていたのがなんだか因果的だなあとも今にして思いますね。 私は青春時代の終わりを、自分に病名がつくことで(正しくは子どもの頃から自分を苦しめる意味のわからない状況に名前がついて)幕を閉じました。二十代前半はODしたり服用していた薬が強くて絵がかけなくなったり色々あって記憶が混濁しており、正直なところ音楽に関してなどは殊によく覚えていません。 二十代後半になって幾人目かの私の人生の英雄BOOM BOOM SATELLITESに出会います。この出会い方もいま思い出しても味わい深くて、十代後半に好きになったBUCK-TICKのライブの配信かなにかで「へーB-Tもブンブンサテライツ使うんだー」ってコメントがあったんです。たぶんライブ終わりに流していたとかそういうことだったのだと思うのですが、私はその時からずっとライブで使う機材のことだと思い込んでいて、でも不思議なものでずっと名前は頭に残っていました。間違えていて、調べもしないのにね。 そこからまた時が流れて2011年頃「Steins;Gate」というゲーム&アニメに出会ってがっつり嵌り、「ゲームの次回作はRobotics;Notesというらしい」という情報と、ニコニコ生放送でその作品のラジオがあるのだと知り、内包していた番組ごと聴き始めるんです。すっかり番組名を失念していたので調べたら、電人GA部ぅ~という番組内で放送されていたRobotics;Notes電波局という番組でした。「リアルロボ部 少年少女たちの夢」だと思っていたけどリアルロボ部はその後に聞いていたのかな。 話がそれました。その電人GA部ぅ~で恐らく、聞き違いでなければBOOM BOOM SATELLITESのBroken Millerという曲が流れて「ブンブンサテライツってグループの名前だったんだ! あと曲超格好いい!!」となってBBSのCDを収集するようになったんです。間違いだとしてもタイミングが神がかった間違え方でした。と言いますのも調べようとしたのはガンダムUCの主題歌ではなくて、日本ファルコムのゲーム那由多の軌跡の主題歌だったんです。そして偶然とは言えここにも「うねる音楽」がありました。大好きなヨーロッパのロックっぽさもあってがっつり嵌るんですね。 そして三十代前半から半ばにかけて色々あって、今までZABADAKの音楽を(正しくは吉良知彦さんの曲を)あまり聴いてこなかったけどちゃんと聴いてみよう、と思い立って色々収集して聴き始めて「良い曲ばかりじゃないか!!」とある種の憤慨もするわけです。今まで食わず嫌いをしてきた自分に対して。思えば私のZABADAKとの出会いは新居昭乃さんのラジオで流れた吉良知彦さんの歌う「白い紙と鉛筆」や吉良さんヴァージョンの「遠い音楽」だったのにえらい遠回りをしてきてしまったものです。 それで今に至るわけなんですが、私の性癖をゆがめた、言い方を変えると「ライトな音楽である=清く正しく明るい音楽」だけではなくて短調にも格好良い曲はたくさんある、悲しい曲もすてき、ひねりうねりとある種のメリバ好きの特性を植え付けた私的な神で、公にも俗に神と称されている人たちとして第一に植松伸夫さん、第二に新居昭乃さんと新居昭乃を通じて知った吉良知彦さん、BBSのお二人、だったのかなと思います。要所要所に我知らず用意されていた音楽ライフのターニングポイントでもあったのかな。菅野よう子さんとBUCK-TICK、SOFT BALLET、GUNIW TOOLS、Radioheadなどは私の人生を形作る上では絶対に欠かせないのですが性癖をゆがめられたというのとはまた違うような気がしたので今回は割愛しました。今回書いた、または書けなかった、どの音楽も等しくそうなんですが壊れ物のように大事で、宝物みたいな出来事もたくさんあるのでそれらについて語るのは次の機会に譲ろうと思います。 プログレ的な音楽との出会いと、ヨーロッパ特有の湿り気のあるロックの世界、変拍子の音楽、アイリッシュ、ファンタジーな世界など、私の音楽的感性を作る上で欠かせない要素が三十年無駄なく積み重なっていたんだなあとつくづく思います。 ある意味ではいつもタイミングが神がかっていているようにも感じられ、少し怖いような気がします。それが人生というものだとしたら事実は小説より奇なり、なのかな? 文章を書くのが下手すぎて自分にしか伝わっていないかもしませんが。 もう少し手を加えたいところですがもうだいぶ長いし、キリがないのでここで擱筆します。 それではまたね。