aoi iro no tori

だんだん離れてゆくよ アルペジオのように トリルでさようなら 別れを惜しむように ──日常のおはなし──

緊張して一日かかってしまった


 一日かけたわりにどうでもよさげな記事。 *書いておかないと忘れる気がして、でもたぶん忘れない  父が亡くなってから実はけっこう毎日困っている。困っている? 悩んでいる? どちらでもいいけど他の人にとってはかなりどうでも良いことで、私は過去のトラウマをえぐられそうになること。けど一周回って実はどうでもいいのかも、でも悩んでいる。  それはすなわち「おはよう、おやすみ、いってきます、ただいま」問題。  なんのことや、と思いますよね。  まず、「いただきます」これは言う。作ってくれた人にも言うし食材にも言う。周りの人にも「私は今から食べますよ」の合図的な感じで言う。「ごちそうさま」も言う。これは作ってくれた人に対して、あるいはお店で接客してくれた人や返却カウンターの人に言います。流れ作業のなかで迷惑かもしれないけど自分のなかでの儀式の一つです。  これらは言う人が決まっているのでいいとして問題は「おはよう、おやすみ、いってきます、ただいま」です。  父が生きていた頃というのは例えば家族みんな起きていて私が最後だった場合「おはよう」と言うと、母「あ、起きたの、おはよう」姉「おはよう」父「はい、おはよーう」と、父がいい感じにまとめてくれていて、「おやすみなさいー」と言うと母「あ、寝るの? おやすみなさい(もしくはおやすみー)姉「おやすみー」父「はいはいはーいおやすみねー(お酒が入って楽しくなっている)」といい感じにまとめてくれていていってきますとただいまもほぼ以下同文なのですが、父なき今、困っています。 朝:私「おはよー」母「おはよう」姉「おはよう」私「あ、はーいおはよー」 夜:私「じゃあおやすみなさいー」母「はーいおやすみー」姉「おやすみ」私「はい、おやすみなさいー」  思わずテキストサイト時代のノリでデカ文字にしたくなるくらい私の〆の「おはよう」と「おやすみ」いらなくありませんか? でも言わないと姉の挨拶を無視しているようで嫌だし、かといって後付けで「おはよー」「おやすみー」というと「〇〇ちゃんに言ったんだよ、お前になんか言ってねーんだよ」と暗に言っているようで小学校時代にいじめっ子のクラスメイトの女子に原文ママの言葉を言われた身としては過去のトラウマを毎日ほじくり返しているようで、勝手にほじくり返されているようにも思えて、早急にこの「おはよう、おやすみ、いってきます、ただいま」問題をどうにしかしたい。  父がいつもいい感じにまとめてくれていたんだよなー。  あと挨拶が三人以上に向けてだとちょうどよく分散される。気がする。 誰かが拾ってくれなくても誰かは拾ってくれる感じの雰囲気になる(学校などは私の場合除く)。けど、相手が二人だと両方が拾ってくれた場合、挨拶が一つだとうまく分散しない。無視しているようにも思えるし、後で追って言うと無理に付け足してしまっているようにも感じる。  挨拶の時だけでも父が挨拶係で蘇ってくれないかしら! そしてちょうどいい感じにまとめてくれないかしら!  そんなことを思いながら今夏は早くも三回忌。時が経つのはあっという間だという気もするし、父が亡くなったのがもう遠い昔のようにも、あるいはまだ父が病院で生きていて日が昇る前のタクシーに乗って父を看取りに行く前日のようにも感じる。哲学というのが私にはよくわからないけどナンチャッテ哲学的に言うと私はいまだに毎日父と心のなかで会話(というか一方的に話しかけている)をしているし、私のなかには余裕で生きているんだよね。だから現実と齟齬が生まれるんだろう。  でも実際に父が蘇ったら最初嬉しくてずっと泣いてて、そのうちいるのが当たり前になってけんかしそう。また変な意地を張って敵認定したりして。そういう日常生活が幸せってことだったんだ、というのは遅ればせながら失って初めて思い知った。  けんかも時々するけれど今は今の家族を大切に生きている。  noteにも載せています。こちら  サイドのカラムからも行けます。思い出ひきずり系noterです。そのうちよみもの系はnoteに移行しようかとも画策中。  アカウント名のポうすヨヨヨはファミコンネームでFFVを父が初めてプレイしたときバッツに間違えてつけてしまった名前。ちなみに本当は「ぽんた」とつけたかったらしい。それもどうなのか。  ミストウォーカーさんのゲームもプレイするときこのファミコンネームを使っているので見かけたらヨロシク!!